2019年 秋(圓光寺・詩仙堂・金福寺)

 とにかく一番見たのは観光客だった。とりわけ叡山電鉄の出町柳駅は、観光客で溢れ返っていた。そんなことは、この日(23日)が、晴天の祭日で紅葉の見頃だったのでわかりきっていたのだが、やはり今年も紅葉を見たいという衝動にかられ、妻と一緒に出かけることにした。
 さて、何処に行くかで相当迷った。紅葉で有名な所はほとんど行ったので思案していたのだが、妻がWebページで見つけた圓光寺のお地蔵さんが見たいと言ったので、昨年と同様の方面になった。ちなみに、昨年は、私一人だった。
 一乗寺駅で下車し、徒歩で圓光寺に向かった。

【圓光寺】
 寺の前には、観光客の行列ができていて、しばらく待たないと境内に入れなかった。
 圓光寺は、臨済宗南禅寺派の寺。開基は徳川家康。
 庭園内のもみじの葉は、緑・黄・橙・赤のグラデーションになっていて、いい感じの紅葉だった。

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 一番の目的のお地蔵さんは、庭園の苔むした所にあった。予想以上に小さくて、うっかりすると見落としてしまいそうなほどだった。苔と散りもみじとお地蔵さんとがマッチしていて、情緒があった。

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【詩仙堂】
 ここには昨年も行ったので、詳細は割愛する。写真一枚だけを掲載しておく。

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【金福寺】
 金福寺(こんぷくじ)の境内には、芭蕉庵と呼ばれる草庵があった。 

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 芭蕉ゆかりの寺で、ここで芭蕉が詠んだとされる「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」いう句が残っている。その後、荒廃していた芭蕉庵を再興したのが、芭蕉を敬慕していた同じ俳人で画家でもあった与謝蕪村だ。蕪村が当寺で詠んだ句として、「耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵」がある。境内には、与謝蕪村の墓もあった。
 蕪村の詠んだ句として以前から知っていたのは、「菜の花や 月は東に 日は西に」と「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」くらいだ。その程度の知識しかない自分を無学だなあと思った。

 金福寺を出る頃には、もう日が暮れかかっていた。また、満員の叡山電鉄に乗って帰路についた。

無線ルーターの故障

 過日、無線ルーターが突然故障してしまった。妻がiPadを使っていて「インターネットができないよ」と訴えた。その時は、以前にも同様のことがあったので、(また電源を切って再起動させたら復旧するだろう)と、気楽に考えていた。ところが今回は、何度再起動を試みても無線ルーターのランプが全点灯せず、復旧させることができなかった。焦った。
 無線ルーターが故障したら、様々なことができなくなってしまった。当たり前だが、ノートPCを使ってWebサイトに接続できないし、メールの送受信もできない。ブログを書くこともできない。また、iPadを使ってYouTubeなどを見たりすることもできない。さらには、スマホのWi-Fi機能を利用することもできないし、テレビと接続してある光ボックスも使えない。中でも一番困ったのは、近年頻繁にネットを通してコンサートのチケットを取ったり買い物をしたりしていたのだが、それができなくなってしまったことだ。
 さて、どう対処したかというと、無線ルーターを新しい物に買い替えた。

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 当初、IT関係に詳しい娘婿にLINEを使って尋ねたり、以前世話になったパソコンスクールのインストラクターに尋ねたりしたのだが、原因がはっきりわからず、結局、無線ルーターの故障と自己判断し、家電量販店に新しい物を買いに行った。インターネットに接続できない原因がはっきりしなかったことや早急にインターネットに接続したかったこともあって、無線ルーターの設定を店所属の専門業者に依頼した。それでも不具合があって、2回も自宅に来てもらった。
 新しい無線ルーターの電波には、5GHzと2.4GHzの2種類があった。建物の構造上、後者を選択して接続した。無線ルーターは二階の書斎に設置してあるのだが、一階の居間でもインターネットに接続できることが確認できた。無線に関して門外漢の私には、遮蔽物が沢山あるのに、なぜ二階の電波が一階まで届くのか、さっぱりわからない。
 再びインターネットに接続できるようになって、一安心することができた。しかし、また故障するのではないかという不安がどこかにあって、ちょっとこわごわとした気持ちを抱きながら様々な機器を使っている。
 今回のことで、インターネットにどっぷりと依存した生活を送っていることを改めて痛感した。

比叡山延暦寺

 今年8月に高野山金剛峯寺に行って来た。そこと対照的に取り上げられるのは、比叡山延暦寺だ。中学生の頃、「空海が高野山に金剛峯寺を建て真言宗を開き、最澄が比叡山に延暦寺を建て天台宗を開いた」と、一生懸命覚えた記憶がある。(内容が伴わない単なる記憶力に頼った学習だったのだが・・・)
 その比叡山延暦寺に10月16日に行って来た。京都に住んでいたら近場にあるのだが、これまで一度も行ったことがなかった。比叡山延暦寺は修行の場という意識が強く、観光地としての意識が薄かったからかもしれない。
 滋賀県のJR坂本比叡山口駅で下車し、バスに乗り換え、終点のケーブル坂本駅で降りる。そこで日本一距離の長いケーブルカーに11分ほど乗るとケーブル延暦寺駅に着く。そこからの眼下に琵琶湖の見える眺望が素晴らしかった。

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 10分ほど山道を歩くと、延暦寺の入口に到着した。
 延暦寺は、東塔(とうどう)地域・西塔(さいとう)地域・横川(よかわ)地域の三つの地域に分かれていてかなり広い。今回は時間的制約もあって、東塔地域だけの参拝となった。
 最初に、総本堂である根本中堂に行った。ここは大規模な修復工事中で、建物全体が工事用の屋根で覆われていた。しかし、本堂内には入ることができた。屋根の葺き替え工事が中心のようだった。

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 その後 、鐘楼で鐘を突いた。山中に鐘の音が響き渡った。

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 それから、大講堂・阿弥陀堂・東塔の順に参拝した。

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 境内を歩きながら、比叡山延暦寺にまつわる歴史に思いを馳せた。
 時を遡ること平安時代末期、権勢を振るった白河法皇が、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が『平家物語』に載っている。このくだりの「山法師」こそ比叡山の僧兵のことだ。当時、僧兵達は、利権を守るために神輿を担いで街中に繰り出し、強訴を繰り返したらしい。仏に仕える身でありながら、俗世間の権力闘争に与していたのだなあと思った。
 また、織田信長による比叡山焼き討ち(1571年)も、歴史上では有名な出来事だ。信長の無慈悲な虐殺が世間に広まったのだが、見方を変えれば、比叡山延暦寺は、広大な寺領や経済力を持ち、多くの僧兵を抱え、軍事拠点となっていたことが、信長の逆鱗に触れたのかもしれない。

 そんな事を思い返しながら境内を歩いているうちに夕方になったので、帰路に就いた。今回も一万歩以上歩いた。健康の維持にはいいのかもしれない。

秋桜(コスモス)

 「秋桜」をそのまま読めば「アキザクラ」で正しいのだが、さだまさしが作詞・作曲し、山口百恵が歌ってヒットした『秋桜』を、文学的表現として「コスモス」という読みにしたため、そう読むのが一般的になったらしい。
 そのコスモスの苗を、先日、プランターに植え付けた。玄関先にはまだ、夏の花であるアサガオやランタナなどが咲き残っていたのだが、コスモスを植え付けたことで、ちょっと季節が進み、秋の気分になることができた。
 秋に咲く花には、コスモス以外に、リンドウ・ケイトウ・キク・ハギなどがあるが、私はやはり、コスモスが一番好きだ。コスモスの花が秋風に揺れているのを見ると、心が和むような気がする。
 老健に入所している93歳になる義母が、コスモス畑を見に行けないことになったので、我が家のプランターに植えたコスモスの写真を、プリントアウトしてあげることにした。

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 コスモスの花を見ると、やはり『ひとつの花』という児童文学作品を思い出さずにはいられない。確か小学校4年生の教科書に載っていたかと思う。戦時中の物資が乏しかった時代を舞台にした作品。
 「ひとつだけちょうだい」が口癖になってしまった幼いゆみ子に、お父さんが、「ひとつだけのお花 大事にするんだよ」と言って一輪のコスモスの花を手渡し、出征していくというお話だ。
 この作品の中に出てくるお父さんのゆみ子に対する心情を読み取ってもらいたいと熱心に教材研究をし、授業をしたことが今でも思い出される。
 そんな時代も遠い昔になったなあと思わずにはいられない。

ケ・セラ・セラ

 「ケ・セラ・セラ」の意味だが、「なるようになる」と訳されている。
 1956年のアメリカ映画で、ドリス・デイ主演、ヒッチコック監督の「知りすぎていた男」の主題歌だ。
 その歌を「風のようにうたが流れていた」という音楽特番の中で、小田和正と和田唱が、ギターを弾きながら聴衆と一緒に歌っていた。それが心に染みて、(うん、そうだ。そう生きなくちゃ!)と思ったりしている。
 そう思う訳は、現実には、なかなか「ケ・セラ・セラ」とはいかないからだ。たびたび煩悩に苛まれているし、性格も影響して、様々なことが不安になったりしている。
 だから、
 ♫ ケ・セラ・セラ なるようになる 未来(さき)のことなど わからない ♫ と歌って、自分を鼓舞している。

布引ハーブ園

 二十四節気の一つである処暑も過ぎ、だいぶ暑さが和らいだなあと感じるようになってきた。今年の夏も終わりだなあと思ったりしている。
 24日、特に予定も入っていなかったので、ふと思い立って、久々に神戸方面に出かけた。
 神戸三宮駅で下車し、地下街を歩いた。娘が神戸の大学に行っていた頃には度々ここに来ていたのだが、その時見つけた喫茶店に入った。そこで温野菜入りビーフカレーのセットを注文して食べた。予想以上に美味しかった。
 その後地下鉄で新神戸駅まで移動。そこに隣接しているロープウェイに乗って布引ハーブ園に行って来た。
 ロープウェイに乗ると神戸市街を一望することができた。1995年に起きた阪神・淡路大震災以降、よくここまで復興したなあとの感慨を抱いた。

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 ハーブ園山頂駅でロープウェイを降り、展望プラザで写真を撮ったりした。全体的に西欧風の雰囲気が漂っていた。ベンチに座り休憩していたら、聴いたことのある癒し系のクラシック音楽が流れていた。そのタイトルが思い出せなくて気になった。後で調べたら、パッヘルベルの「カノン」だとわかった。

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 展望エリアの奥には「香りの資料館」があった。そこで約80種のエッセンシャルオイルの香りを比べることができた。

 建物の外には百合の花が咲いていた。

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 雨が降りそうな天気になってきたので、風の丘中間駅に向かってハーブガーデンの中の道を歩いた。様々なハーブが植えられていたが、ほとんど名前を知らなかった。知っているのは、レモンバームとラベンダーくらいだった。時々鼻を近づけ香りを嗅いだ。
 かなり急な下り坂だったので歩きにくかった。後でスマホに入れてあるアプリの歩数計を見たら1万歩を超えていた。

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 帰宅したら、疲れてまたうたた寝をしてしまった。老いの進行を感じることの多い日々だ。

高野山

 連日の猛暑と巷の喧騒を一時的にでも避けたい気持ちもあって、8月8日、高野山に行って来た。1200年以上前、弘法大師(空海)が開基した真言密教の聖地だ。世界文化遺産にも登録されている。

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 朝7時過ぎの阪急電車に乗車し、大阪方面に向かった。通勤時間帯と重なり、車内はすごく混んでいた。大阪梅田で地下鉄御堂筋線に乗り換えても、いっぱいの乗客で座れなかった。現役で通勤している人達は大変だなあと改めて思った。サンデー毎日の暮らしを続けている私には耐え難いことだ。
 難波駅で南海高野線の特急に乗り換えたら、ようやく旅行気分になることができた。終点の極楽橋駅まで乗車。そこから高野山ケーブルに乗り、高野山駅に着いたのは10時過ぎだった。そこからバスに乗り、いきなり奥の院に行くことにした。事前に「高野山1dayチケット」を購入しておいたので、切符や小銭を用意する手間が省けて助かった。

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 「奥の院口」でバスを降り、そこから奥の院に向かう石畳の参道を歩いた。延々と続く約2kmの参道。その両側には20万基以上の墓碑や供養塔が立ち並んでいた。その中には、著名人や戦国武将や大名の墓などもあった。また杉の巨木が林立していて、悠久の歴史を感じることができた。

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 昔、息子が高校生だった時、夏の合宿が高野山であって、夜にこの奥の院の参道を歩かされたらしい。さすがに夜ここを歩いたら怖いだろうなあと想像した。
 神秘的な雰囲気の漂う参道の一番奥に、弘法大師御廟があった。手前の御廟橋を渡ったら聖域で、写真撮影も禁止。堂内では2万基以上の献燈が輝き、僧侶の読経が響き渡っていた。そこで護摩木に願い事を書き奉納した。静かに合掌した。
 奥の院の参拝をした後、御朱印を押してもらった。これで御朱印帳が、より充実したものになった。

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 奥の院前のバス停まで歩いた。そこからまたバスに乗車し、「千手院橋」で下車した。その近くにある食堂で遅い昼食を摂った。高野山が世界文化遺産になっているせいか客に外国人観光客も多く、店員が英語で接客していた。
 昼食の後、金剛峯寺に行った。言わずと知れた真言宗の総本山だ。真言宗の寺は、全国に3600寺ほどあるそうだ。高野山だけでも117の寺があるらしい。主殿の大広間の襖絵などを観て回った。また、別殿にある蟠龍庭という石庭も拝観した。

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 その後、壇上伽藍のお参りをした。伽藍とは、「僧侶が集い修行をする清浄な場所」という意味があるらしい。金堂や根本大塔の内部を観ることができた。根本大塔の外観は一部修復中でちょっと残念だったが、内部の大日如来像などを拝観することができた。

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 その他、霊宝館や大門に行ったりしたが、省略する。
 とにかく広い高野山を頑張って歩いた。自宅に帰ってスマホに入れてある歩数計のアプリを見たら2万1千歩ほどだった。




猛暑日

 その日の気温が35度以上になった日は、猛暑日と呼ばれている。その猛暑日が、京都では、梅雨明けから連日続いている。
 京都は盆地の地形のためか蒸し暑く、近隣の府県よりいつも気温が2・3度高いので本当に参ってしまう。今日(8月4日)も京都は最高気温が38度になる予想が出ている。
 これだけ暑いと、ほとんどやる気が起きない。室内で、テレビドラマを観たり、YouTubeを見たり、ネットで買った音楽の数々を聴いたりしている程度だ。もちろん室内ではエアコンを使用しているのだが、設定温度を下げ過ぎたりすると神経痛が起きたりして体調が崩れたりするので、隣の部屋のエアコンを使ったり、扇風機を併用したりしている。
 屋外でのテニスの試合は、熱中症の危険があるので、3週間の夏休みを取ることにした。ただし、屋内でのテニススクールは、体力維持も大事なので、続けるつもりでいる。

 この猛暑日の中で夏の花々は元気に咲き、我が家の玄関を飾っている。花の種類は、アサガオ・トレニア・ポーチュラカ・ニチニチソウ・ランタナなど。
 アサガオは、一昨年の種を蒔いて育てた。今年は施肥や摘芯がうまくいき、このところ毎朝、10個ほどの花が咲いている。
 ポーチュラカは苗を買って来たのだが、丈が伸び過ぎていたので、途中で切り、土に挿しておいたら根が出て増えてきた。生命力の強い花だ。
 夏の花々は暑さに強いとは言え、この猛暑日の中では、毎日の水遣りを欠かすことができない。日中に水遣りをすると根腐れを起こすので、夕方にしている。

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 まだまだ猛暑日が続きそうだが、何とか暑さに耐え、体調を崩さずにこの夏を乗り切りたいと思っている。

2019年 祇園祭[前祭]

 祇園祭にはこれまで何回も行ったことがあるし、当ブログでも何回か記事として載せたこともあるので、当初は行くつもりではなかった。しかし、3年ほど前に購入した厄除けちまきが目に入ったら、去年から今年にかけて家庭事情で大変なことがあったし、それを新調したいなあという気持ちが募り、結局、7月14日に行って来た。
 祇園祭の由来だが、1150年前の昔、京の都や日本各地に疫病が流行した時、厄災の除去を祈願して始められた八坂神社の祭礼だ。祇園祭というと山鉾巡行が脚光を浴びがちだが、実際には、7月1日から31日までの1ヶ月にわたって各種の神事・行事が繰り広げられている。
 今回の祇園祭だが、厄除けちまきを購入するのが第一の目的だったので、阪急烏丸駅で下車し、すぐ近くに設置されている長刀鉾に行った。ところが、午前中に行ったのに、すでに長刀鉾の厄除けちまきは完売となっていて買えなかった。仕方がないので、月鉾まで移動し、月鉾の厄除けちまきを買った。実際に月鉾に上ることもできた。
 後日テレビを見て知ったのだが、転売目的でちまきを買い占め、ネット上で高額の値段を付け販売している人が多いらしい。ちょっと腹立たしい気持ちになった。
 前祭(さきまつり)の山鉾は全部で23基あるのだが、今回見て回ったのは、以下の5基のみだった。

【長刀鉾】(なぎなたほこ)
 毎年「くじ取らず」として、必ず巡行の先頭を行く。現在、生稚児(いきちご)が乗る唯一の鉾。

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【函谷鉾】(かんこほこ)
 鉾の名前は、中国戦国時代斉の孟嘗君が秦の国を逃れ函谷関(かんこくかん)に着いた時の故事に由来する。

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【月鉾】(つきほこ)
 鉾頭に新月型(みかづき)をつけている。鉾の中で一番大きくて重い。およそ12トンある。

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【蟷螂山】(とうろうやま)
 「かまきり山」とも呼ばれる。かまきりの羽や鎌が動く、祇園祭では唯一のからくり山。
 今年はくじ取り式で山一番を引き、長刀鉾に続いて、2番目に巡行する。

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【船鉾】(ふねほこ)
 御神体の神功(じんぐう)皇后は、安産の神とされている。前祭23基のしんがりを務める。

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 家に帰ってから、厄除けちまきを飾った。神仏に頼ったりするのは科学的ではないかもしれないが、厄除けを祈願する人の気持ちは尊いと思っている。

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2019年6月 元善光寺

 私の実父母は、共に6月に亡くなった。父は14年前の6月19日。母は8年前の6月8日。
 こんなにも歳月が流れたという実感は、あまりない。看病・介護に長年深く関わった私にとって、ごく近年の事のように感じている。
 そこで、梅雨時ではあるが、6月19日から21日にかけて、お墓参りのため信州に行って来た。時間的余裕があったので、高齢だが存命の叔母さん達にも会って喋ることができた。また、地元にある元善光寺に行くこともできた。

 一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは 片詣り

 元善光寺の起源は、今から千四百年前、長野市の善光寺のできる前に、本多善光(ほんだよしみつ)公という人物が、御本尊を難波の堀より迎えてお祀りしたことに始まるとされている。善光寺という寺の名前は、この人物の名前から付けられたのだろう。
 飯田駅からJR飯田線に乗り、二駅。元善光寺駅で下車した。そこから徒歩10分ほどで到着した。

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 本堂では、長いこと掌を合わせ祈願した。父母の菩提・孫娘の病気の快癒・無病息災・西国三十三所巡りが大願成就となった御礼・等々。
 本堂の奥に平和殿という所があって、西国三十三番の札所の観音様が祀られていて、お砂踏み参拝をすることができた。改めて一番札所から順番に、実際に参拝した時のことを思い出しながらお砂踏み参拝をした。悲しいかなその時の九割以上は、忘却の彼方となっていることに気付いた。暇な時に、自分で綴ったブログを読み返そうと思っている。

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 最後に、元善光寺の御朱印を押してもらった。これで御朱印帳は完璧なものとなった。

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お礼参り 善光寺

画像 昨年、西国三十三所巡りが大願成就となったので、そのお礼参りに、5月15日、信州の善光寺に行って来た。それだけが目的だったので、日帰りでの強行スケジュールとなった。
 お礼参りの寺がなぜ関西から遠く離れた信州の善光寺になっているのかは、調べたが、はっきりしたことがわからなかった。関東から西国三十三所巡りに来た人達が、帰路、当時から有名だった善光寺を訪れ、大願成就のお礼参りをするのが慣例となったのかもしれない。どうも後付けの寺のようで、御朱印帳に記帳してもらう時、「番外扱いとなりますので、空欄に書くことになります」と言われた。
 善光寺にお礼参りに行こうと急に思い立ったので、スマホの乗換案内のアプリを使って乗り継ぎを調べた。まず出発駅と到着駅を入力する。次に出発日時を入力し、検索をかけたら瞬時にいくつかの候補が表示された。便利なものだ。昔、大判の時刻表を買い、乗り継ぎを調べた頃が無性に懐かしい。
 京都駅を8時8分に出発し、長野駅に着いたのは11時59分だった。長野駅に着いてびっくりしたのは、長野駅がすっかり新しいデザインで建て替えられていたことだ。長野新幹線が開通したことが影響しているのかもしれない。

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 長野駅前からバスに乗り、終点の大門町のバス停で下車した。そのすぐ傍にある蕎麦専門店でとろろせいろ蕎麦を注文して食べた。事前に妻がネットで調べ、一番評価が高かった店だったので、蕎麦の味も店の雰囲気も満足のいくものだった。
 昼食後、石畳の参道を歩いた。参道の両側には、土産物店や宿坊が並んでいた。
 仁王門を通った後、参道横にある六地蔵を参拝した。感謝の気持ちを込めて掌を合わせた。

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 仁王門の次に山門があった。楼上の正面には、「善光寺」と書かれた額があった。後で知ったことだが、この漢字三文字の中に、鳩の絵が五羽、隠されて描かれていた。

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 山門を通るといよいよ善光寺の本堂だ。手を洗った後、線香の束に火を付け、巨大な香炉の中に入れた。その後、本堂内に入り、参拝した。西国三十三所巡りが大願成就となったお礼の気持ちを込め、長めの時間をかけて合掌した。
 本堂内の記帳所で御朱印を押してもらった。これで西国三十三所巡りの旅が完結したという感慨を覚えた。

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 戒壇巡りもした。真っ暗な中をそろそろと歩き、中程に懸かる「極楽の錠前」を探り当てることもできた。
 午後の4時には、帰りの電車に乗った。わずか4時間ほどの長野での滞在だった。

 思い返してみると、 西国三十三所巡りを始めたのは、平成24年7月1日。最初の寺は、西国第二十二番札所の総持寺だった。その時から7年の歳月が流れ、ようやく今回の善光寺へのお礼参りで完結した。
 ツアーバスを利用せず一般交通機関を利用し、できる限り歩いた事。夫婦二人だけで巡った事。そこに人生の軌跡としての価値があるのではないかと思っている。
 しかし、お礼参りを終えた今でも、悟りの境地にはほど遠いなあと思っている。これが凡人の悲しい性(さが)かもしれない。
 まあ敢えて言及するなら、人生は奇跡の連続で、自力で生きてきたようで、実は生かされているという感覚を、ちょっと体得したことだろうか?

誕生日会

 11日(土)、義母の入所している老健で5月の誕生日会があったので、妻と一緒に参加してきた。
 義母は今年93歳になった。大正15年生まれ。元号で言うと、大正・昭和・平成・令和を生きて来たことになる。
 5月生まれの人は、義母を含め5名いた。その中に、110歳になる女性がいた。入所者の中でも最高齢だ。その人は、明治生まれということになる。「すごい!」の一言に尽きる。
 家族の参加は、私達夫婦だけだった。そんなものかなあと、ちょっと淋しい気持ちになった。
 ホールに入所者(9割以上が女性)が集まり、皆で「Happy Birthday」の歌を歌ってお祝いした。続いて5月が誕生日の人の紹介があり、一人ひとりプレゼントをもらった。記念写真の入った装飾されたタオルだった。その後 、飲み物とロールケーキが入所者全員に出た。
 つくづく思うことだが、老健に入所していることで、義母本人も、私も妻も非常に助かっている。老健内はバリアフリーになっているので、車椅子生活の義母にとっては、転倒・骨折の危険がきわめて少ない。また三度の食事や入浴(週2回)の世話だけでなく、看護師もいて健康管理もしてくれているので、私や妻は 、安心して自分達の生活ができている。
 さらには、老健ではレクレーションの取り組みもしてくれているので、入所者は、意欲的に日々の生活が送れている。現在、義母は、毛筆習字・生け花・塗り絵・脳トレなどに参加している。若かりし頃、女学校に通っていた時、父親が亡くなり、学校を中退しなければならなかった過去があるせいか、再度、学校の学習をやり直しているようなところがある。
 老健に入所していて、良いことばかりではない。集団生活なので、どうしても人間関係の面で難しいところがある。気が合う・合わないといったレベルだけでなく、「あの人は職員さんから贔屓してもらっている」といった嫉妬にも似た感情が芽生えたりもしているみたいだ。そんな時は文庫本を開き、小説の世界に浸っているようだ。そこがすごいなあと思ったりしている。
 5月に誕生日を迎えた人の中に、71歳になる男性がいた。私に近い年齢だ。それを知り、ふと、(もし私自身が介護を受ける立場になったら、どうなってしまうんだろう?)という一抹の不安が脳裏をよぎった。実際、私の元同僚でALSの病に罹り、ほとんど寝たきりの生活を送っている人もいる。そんな事を考えてばかりいたら、不安感が増幅するだけだ。
 そこで、♪ケ・セラ・セラ なるようになる 未来(さき)のことなど わからない♪ と歌ってみるが、動揺を隠し切れないでいる。
 心が揺れ動く昨今だ。

夙川公園の桜

画像 3月末に桜の開花宣言が出されたものの、4月に入って日本列島に寒気が下りて来て思いのほか寒い日が続き、桜の開花が進まなかった。この状況だと、関西では今週末あたりが満開になりそうだが、すごい人出が予想されるので、4月4日、花見に出かけることにした。
 今回は、観光客の多い京都を避け、兵庫県の西宮市にある夙川公園に行って来た。ここにはこれまで、少なくとも4・5回は訪れている。最初は、妻と一緒に訪れた40年ほど前だろうか?その後も花見で訪れ、桜の写真を、当ブログにもアップしてあると思う。その時の満開の桜が印象的だったので、今回も訪れてみたくなった。
 阪急夙川駅で降り、駅前で昼食をとった。まだ空気が冷たかったので、温かい鍋焼きうどんを注文した。けっこう味が良く、完食した。
 昼食後、夙川に沿って北上し、花見を楽しんだ。川と桜の組み合わせは情緒があっていいものだと改めて思った。

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 また、この日は久しぶりの青空だったので、桜の花が映えるなあと思ったりもした。

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 ちょっと残念だったのは、桜の枝が所々切断されていたことだ。老木になって来ていて、病気の広がりを防ぐためだろうか?それとも、昨年の台風21号の影響で枝が折れたりしたのだろうか?何処となく昔と比べると花数が少なく、花弁の輝きが衰えて来ているように感じた。
 散策しながら、頭の中では、コブクロの「桜」の曲が流れていた。この曲が気に入っていて、これまでに何十回と聴いている。曲の出だしは単調だが、さびの部分がいい。また、歌詞もメッセージ性があっていいと思っている。最近は、この曲を熊木杏里がカバーしたのを、YouTubeで聴いている。ピュアで淋しげな感じが伝わって来て、これもまたいいと感じている。
 閑話休題。
 今度は、川下に向かって歩いた。河口までは相当距離があった。2・3回、ベンチに座って休憩した。老化は足腰から始まると言われているが、その通りだなあと思った。

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 河口近くに、西宮回生病院があった。この病院が高畑勲監督の『火垂るの墓』のアニメにワンシーンとして描かれているのだが、すっかり新しい建物になっていた。

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 河口では、引き潮になっていたからか、ユリカモメなどの沢山の鳥たちが餌を啄ばんでいた。潮の香りが漂っていた。昔は広い砂浜で、波が打ち寄せていて開放感を満喫することができたのだが、今は広い埋め立て地ができてしまっているのが、景観としては残念だった。

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 少なくとも7・8キロメートルは歩いただろうか?それにしても、2月初旬の右膝の怪我からおよそ2カ月。これほど歩けるまでに回復したことを、本当にありがたいと思っている。
 帰りは、阪神電車に香櫨園駅から乗り、帰路についた。途中で、疲れて眠ってしまった。

 今年もまた花見をすることができた。それができた「今」に感謝、感謝だ!


2019年 春 「六角堂」

 六角堂の境内は、早や春爛漫となっていた。たくさんのお地蔵さんの上から垂れ下がった桜に、春の風情を感じた。

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 前回、六角堂を訪れたのは、昨年の8月。その時から8ヶ月の歳月が流れた。辛くてしんどい日々が続いた。ここに来てようやく前途に光明を見いだすことができたので、3月30日、御礼参りの意味を込めて、六角堂を再び訪れることにした。

 六角堂の正式名称は頂法寺だが、本堂の屋根が六角形なので、地元では、六角堂の名で親しまれている。開基は聖徳太子とされている。西国三十三所巡りの第十八番札所にもなっている。
 六角堂正面から見える柳はやわらかな黄緑色で、春の訪れを感じることができた。

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 線香を立てた後、妻と一緒にお参りをした。感謝を込めた長めの祈りを捧げた。
 境内の桜は満開だった。

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 春の到来と共に、事態がさらに好転することを祈らずにはいられない。

春の足音

 今日(9日)は暖かで、春の足音が聞こえて来そうな良い天気だった。

 思い立って、我が家の小さな庭の手入れをすることにした。
 冬の間に地面に散らばった枯れ葉を竹箒で集め、ごみ袋に入れる作業を繰り返した。
 その後、地面に生えた雑草を一本一本抜いていった。根気のいる作業だが、この時期にやっておくと、春の季節の草引きが楽になる。
 最後に、伸び過ぎた樹木の剪定をし、2時間ほどで作業が終わった。疲れたが、手入れが済んだ庭を眺めると、心が洗われたようなすっきりした気分になった。

 小さな庭だが、春の足音が聞こえるような変化があった。
 福寿草は、すでに開花していた。

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 桜草は、冬の寒さに耐えて、芽を出していた。近年は雑な手入れしかしていないのに無事に生き延びてくれていて嬉しかった。

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 実家から貰って来た水仙は、蕾ができていた。
 一つだけ残念だったのは、昨年の秋、沈丁花が枯れてしまったことだ。原因は未だにわからない。

 玄関先に置いてあるプランターに植えたビオラは、花数が増え、輝きも増して来ている。

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 本格的な春の到来まで後わずかの日数のように思える。ちなみに今年の京都の桜の開花予想は、3月24日らしい。

右膝の怪我

 怪我をしたのは、先月の28日だった。テニスの試合中、相手が打ったクロスボールを打ち返そうとして2・3歩、走り始めた時だった。右膝に急に激痛が走り怪我をしてしまった。
 (やってしまった!)と一瞬思ったが、後悔先に立たずだ。想定外の怪我だった。
 それでもパートナーに迷惑をかけてしまうので、痛みに耐えながら試合を続行し、4ゲームの試合終了までプレーをした。

 後日、どうして怪我をしたのか原因を考えてみたら、思い当たる事はあった。
 試合当日は、とにかく心の余裕がなかった。朝寝坊をしてしまい、バタバタとした感じで朝食やトイレを済ませ、試合時間ギリギリにコートに到着した。だから、寒い朝だったのに、ウォーミングアップをほとんどしないまま試合に臨んだのが一番いけなかった。
 それと、自覚するしないにかかわらず、老化がじわじわと進行していることも怪我の原因のひとつだったのだろう。

 痛みは翌日になって増した。歩くのもままならないほどだった。家庭事情で一人暮らしをしている時だったので、何かと困った。右膝の痛みよりも、歩くという普段当たり前のようにできている事ができなくなった精神的苦痛の方が大きかった。
 4・5日経っても痛みが取れなかったので、整形外科に行った。レントゲン撮影の結果、骨には異常がないことがわかった。炎症を和らげる湿布薬を処方してもらっただけだった。リハビリをしながら、日にち薬で治すしかないことがわかった。

 怪我をしてから3週間後、だいぶ痛みがましになったので、シニアテニスクラブの方だけ行ってみることにした。(よりハードなテニススクールの方は、まだ休んでいる)
 速く走るのは無理だったが、何とか試合をすることができた。ここまで回復することができたのが嬉しかった。

 今回の怪我を通して、テニスのスキルの向上や試合の勝敗は二の次・三の次で、「テニスができている今がありがたい」という思いが、より強くなった。


ビデオ通話

 私には、チェコ共和国に住んでいる叔母がいる。叔母と言っても、私より3歳年上なだけだ。私にとっては姉のような存在だ。実際、子供の頃、私は母の実家に度々預けられていたので、姉のように慕って一緒に遊んだりしていた。
 その叔母と、インターネット通信の一つであるSkypeを使って、長年、ビデオ通話をしている。

 叔母がチェコに行ったのは、遥か昔。私が京都の教員になって2年ほど経った頃だったように記憶している。母から手紙が届いて、叔母(母にとっては、7人兄弟姉妹の一番下の妹)が結婚して外国に行くことになったので、羽田空港に見送りに行くようにとの内容が書いてあった。
 当時はチェコではなく、チェコスロバキアという社会主義国だった。叔母は英語の教師をしていたので英会話はできたとしても、チェコ語は当時、全く喋れなかったと思う。そんな状況でよく外国に住む気になったなあと、今でも叔母の決断に驚愕している。後々になって本人から聞いたのだが、最初は英語での文通で交流するようになり、やがて恋愛関係に発展し、結婚を決めたらしい。それだけ愛の力が強かったということかもしれない。
 叔母が結婚してチェコスロバキアに行った当初の連絡手段は、ほとんど手紙だった。届くのに何週間もかかった。国際電話という通信手段もあったと思うのだが、通話料金が怖くて、一度も利用したことがない。
 物資も不足していたようだ。兄弟姉妹が送った品物に対して、高額な税金をかけられたらしい。私も自分の結婚の記念品を送ったことがあるのだが、流通の過程でかすめ取られたみたいで、結局、届かなかったりした。
 そんな隔絶された社会とも言える時代が長く続いたのだが、1989年にビロード革命があり、チェコスロバキアの社会主義政権が倒れ、民主化された。その後チェコスロバキアが、1993年、チェコとスロバキアに分離された。
 こうした社会変化と並行するかのように、世界ではインターネット通信の普及が進んだ。叔母とも、はっきりした年月は忘れてしまったが、電子メールのやり取りをするようになった。
 これだけでも画期的な出来事なのに、やがてSkypeというインターネットを通した無料の音声通話ができるアプリがあることを知り、利用するようになった。
 
 最初は試行錯誤の状態だった。アプリをダウンロードし、アカウントの作成などをした。その後、音声テストをしてセットアップが完了した。しかし、通信相手がSkypeのアプリをPCに取り込んでいなかったら、無料の音声通話ができない。そこでSkypeの画面で叔母の名前をアルファベットで入力し、検索をかけた。すると、5件ほどが表示され、その中の1件の国名がチェコ共和国だった。そこで叔母がSkypeをしていると確信し、叔母宛にメッセージを送信した。
 それから叔母とのSkypeでの交流が始まった。最初は音声通話だったが、途中からビデオ通話に発展した。
 月1回ほどのペースでSkypeをしている。時差が8時間あるので、話す時間帯を何時にするかが難しい。
 それでも先月は、Skypeで1時間32分も喋った。それだけ長時間喋っても全く無料というのが最大の魅力だ。
 叔母が笑いながら嬉しそうに「世界の距離が縮まった気がするねえ!」と言っていたのが象徴的だった。

 ビデオ通話ができるアプリは、Skype以外にもある。私が使っているのは、FaceTimeだ。Apple社のデバイス同士でないと使えないが、非常に使い方が簡単で便利だ。
 娘夫婦と孫たちがNYで暮らしていた5年間、FaceTimeを頻繁に利用した。週末になるとFaceTimeがあり、孫たちの成長を映像として見ながら長時間、話をした。NYと時差が14時間もあるのに、すぐ近くに住んでいるような錯覚を覚えるほどだった。かえって、東京に住んではいるが、たまにしか音信のない息子の方が、遠くで暮らしているような気がした。

 この二十数年の間のITの進化には、目を見張るものがある。新たな問題が派生してはいるものの、便利な世の中になったものだと単純に思ったりする。
 今後はどうなって行くのだろう?AIの進化かもしれない。もうついていけないような気がしたりする。

2019年 初詣 「下鴨神社」

画像 昨年を象徴する漢字一字は、「災」だった。実際、豪雨・台風・地震と自然災害が相次いだ。今でもそれらの傷痕が残ったままになっているのが生生しい。
 我が家の場合も、昨年は、青天の霹靂としか言いようがない災いに見舞われ、重苦しい気分を引きずって来た。未だに前途にはっきりとした光明を見いだせないままでいる。
 こうなると、気持ちだけでもリセットしたいと思うようになり、信仰心が薄い身でありながら、初詣に出かけたくなった。

 何処にしようか思案したが、結局、世界文化遺産になっていて、アクセスもよい下鴨神社に行くことにした。ここにはこれまで、2010年と初孫のお宮参りなどで、何度か訪れている。
 1月3日、京阪出町柳駅で下車し、糺の森(広さ2万4千平方メートル)の中にある長い参道を歩いた。ここを歩くと、自ずと厳かな気持ちにさせられる。

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 しばらく参道を歩くと、鳥居と楼門が見えてきた。楼門前で写真を撮ったりした。

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 楼門を通り中に入ると、舞殿という建物があり、その前に、今年の干支である猪の絵が描いてある巨大な絵馬があった。「猪突猛進」という言葉が思い浮かんだが、もう自分にはそのような生き方はできないなあと、どうでもいいことを思ったりしていた。

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 中門を通った後、本殿に向かって参拝した。ここはさすがにすごい人混みだった。ゆっくりと願い事を祈念する余裕がなかった。
 干支の社もあったので、自分の干支の社も参拝した。
 帰路、楼門の前で、甘酒を飲んだ。生姜の味がして身体が温まった。
 これで今年のスタートが切れたなあと、ちょっと安堵した。

 世間並に初詣を済ませたが、心底願いを叶えてもらえると思っているわけではない。心の安寧を保つだけだったような気がする。
 現実をしっかりと見据え、着実に歩を前に運ばなければならないと思っているところだ。

人生の岐路

 早や師走。今年も年賀状を作成する時節となった。年賀状の添え書きをしていると、自ずと過ぎ去った日々に目が向く。
 「今を生きる」を座右の銘にしている私にとっては、過去に目を向けることはあまりしたくないのだが、時にはそれに想いを馳せてみたくなったりもする。とりわけ、これまで生きて来た歳月よりも、これから生きて行くであろう歳月の方が確実に短いことを自覚すると、そんな気持ちが募る。
 これまでの歳月を振り返ると、たくさんの人々と出会い、そしてまた、別れてきたなあとしみじみと想う。それと同時に、大きな人生の岐路に立たされたことが、何回もあったなあと思ったりもする。
 その岐路の数々をここで逐次詳細に記述するつもりはない。しかし、ただ一つだけ、その具体的事例を記してみたい。
 私は、大学を卒業する際、長野県と京都市の両方の教員採用試験に合格していた。どちらの教員になるかは、私の選択に委ねられていた。あれこれと思い悩んだ末、京都市の教員になる道を選んだ。その選択の結果、現在の私があるのは、紛れもない事実だ。
 もしあの時、別の道を選んでいたら・・・と、選ばなかった人生を想像をしてみることが時々ある。しかしそれは無意味な事だ。畢竟、一つの道を選択したことで、あるものを得ることができ、別のあるものを失ったのだろう。
 その選択の連続が、人生そのものだ。だから、できることは、選んだ道を自分なりに精一杯生きるしかないのだ。

 年末になって惑いが生じたのか、わかりきった無駄な想像をしてしまったような気がする。

詩仙堂 曼殊院 赤山禅院

画像 京都はいよいよ晩秋。紅葉の見頃となってきた。
 紅葉は毎年見ているからもういいやと思う気持ちがないわけではないが、一方で、来年の紅葉を必ず見られる保証はどこにもないと思うと、焦る気持ちの方が優って、やっぱり今年も紅葉を見に出かけることにした。
 ところが何処の紅葉を見に行くかで、かなり思案してしまった。紅葉で有名な場所はこれまでにほとんど行った。それにこの時期、観光客が多過ぎて人いきれに負けてしまうのもしんどい。かと言って、紅葉の穴場のような所はなかなか見つからない。
 結局、観光客の数が比較的少なく、何度も行ったことはあるが紅葉がそこそこ綺麗な場所として、タイトルに記した寺院に決めた。これらの寺院は京都市左京区にある。私が京都で教員としてのスタートを切った学校の校区でもある。

【詩仙堂】

 叡山電鉄の一乗寺駅で下車して、徒歩で15分ほどの所にある。
 石川丈山という文人が造営し、没するまで隠棲した所。
 ここは最初、私が京都で教員になる際に、縁あって私の保証人になってくれた大学の先生が案内してくれた所でもある。その人のお祖父さんが「殘月軒」と揮毫した額が堂内にあることも教えてくれた。
 小さな門を潜って、詩仙堂の中に入った。建物内部から紅葉した庭園を眺めた後、外に出て、庭園内を散策した。時々、「カーン」という鹿威しの音が響き、静寂な時間が流れていた。

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【曼殊院門跡】

 学校の研修会でここを訪れたことがある。皇室との関連が深い建物。枯山水の庭園が落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

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【赤山禅院】

 比叡山の麓にある。
 参道に鳥居もあるし、地元では「赤山神社」と呼んでいた。しかし、後で調べたら、延暦寺の塔頭であることがわかった。
 昔は紅葉の穴場的な場所だった。近年は紅葉が鮮やかなので有名になって、観光客が増えて来た。
 絵になる風景なので、ここに写生大会の絵を描きに、子供達を連れて来た記憶がある。

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 紅葉と寒桜との取り合わせの妙が素敵だと思った。

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 帰路、昔、勤めていた学校の前を通った。講堂だった建物が改築され、立派な体育館に変わっていた。校舎はあまり変わっておらず、懐かしさを感じた。
 時はすっかり流れ、同じ学年だった二人の先生は既に亡くなっていない。その二人の先生の感化を受けて、その後の私の、教師としてのスタンスが決まったような気がしている。